悟りってなんぞや?

「悟りとはなんぞや?」と言う事を考えてみましょう。

本当の意味での悟りは開こうとして開けるもんじゃないよ。

まず悟り自体がどんなものか、わかっている人が殆どいないと思うし
それがわかって実行出来た時と言うか・・・
その精神レベルになれた時が、悟りを開けたと言えると思う。

この時、人は我が身の愚かさ・未熟さに気が付くでしょう。

普通の何々を悟ったとは違うからねぇ。
どこぞの団体が何かをすると悟りが開けると言ってたらしいけど
そんなんで悟りが開けるなら、みんな開けてるよ。
そんな欲と邪念の中でした事で悟りが開ける訳がない。

悟りなんか本当はあの釈迦ですら本当は開けてないのよ。
と言うか悟り自体伝えられてる悟りを開けたら
それは、おかしいよ。
言い伝えでは、釈迦は悟りを開いたとなっているけどね。
確かにその悟りも理解はしてる。
でもその通り実行はしてないもの。

感情がなくなると言うか、悟りは本当の「無」だからね。
それは感情のある人間には無理な事。
しいて言うなら一部だけ悟ってみた感じかな。(笑)

私は、「悟りとは、業の心を捨て邪念を捨て悪欲を捨てた本来の人間らしさ」
だと思います。
これは「無」ではありません。

憎むな・嫉むな・許す気持ちを持とう。
逃げない。
命の尊さを知ろう。
常に冷静さを持っていよう。
広い心を持とう。
愛の心を持とう。
差別をしない。
嘘は自分の為に付くものではないと言う事を知りましょう。
命ある者の心を大切にしよう。
魂の存在を理解し大切にしよう。
悪意を持たない。
前向きにプラス思考で生きよう。
その心は、本当の正ですか? 人を見て自分を見直そう。
時には、無の状態を自在にコントロール出来るようになろう。

これが私が思う悟りです。

キーポイントは「愛と己を知る事です」

どこぞの般若心経の解釈からする悟りなんて違うと思いますよ。
釈迦を見ててもそれはわかるよ。
あんな奇麗事ばかりの悟りなんてあり得ないと思うよ。
全てを愛して許して罪を消して救うなんて・・・

それだったら天罰なんてある訳ないし
悪人ものさばらすと言う事になるよねぇ?

重要なのは、人の道に反するな。
我が身を知って何処がいけない所なのか?
どうすればよいのか?
を自分で学ぶ事ですね。

それに気が付いて実行して正しい心を持てた時、
悟りに近づいたと言えるでしょう。

だから自分の全ては、正しいんだと思い込んでる人には
悟りを開く事なんてとうてい無理な事ですよ。
後、あまりにも自分がなく、人に依存していないとやっていけない人


奇麗事の悟りを開いたと言ってる人は、怪しいと思っても良いでしょうね。

私の言ってる悟りは、奇麗事の悟りより簡単です。
しかし・・・ それでも難しい事です。
一つ一つの広い意味を理解するのも難しいと思います。
だから悟りは簡単には開けないのです。

一つずつ体験して学び、この世の表も裏も見て、
理解して行かなくてはなりません。
大変だから一つずつでも良いんですよ。
一生の内にどれだけの悟りを開けるでしょうね。
能書きや屁理屈では、悟りは見えて来ませんよ。

開けた悟りの分だけ、あなたは幸せになれます。
人を幸せにしてあげられます。
49日の意味等について


亡くなって50日目の明け方、仏壇の前に座る父の姿を見ました。
父は「やっぱり行かなきゃならんのかな・・・」と私に尋ねました。
49日の意味等について教えてくださいませ。


親父さんかなりの心残りがあったんでしょうね。
それが自分の定めだとわかっても家にいたかったんだね。
それで駄目押しの言葉「やっぱり行かなきゃならんのかな・・・」

わかっちゃいるけど・・・
できるなら、「ここにずっと家族といたい」と思ったのでしょう。
亡くなってから49日の間、いつものように生活してたと思いますよ。
49日ですが、亡くなった日から49日は、まだ上に上がる事はないのですよ。
( 仏教では葬儀が済んでから49日とされています )
それまで、みんなにお別れに行ったり、行きたかった所へ行ったりいろいろします。

私のいう事は、仏教のいわれと違うと思いますが、私が見ていて
そうですから私の答えを書きますね。

上がるとなったら凄いスピードで吸い上げられます。
感性の同じ人達ばかりで一つの霊界を作っていますから、
親父さんも気の合う仲間と楽しくやってる事でしょう。 (^^)
49日の意味というか・・・
一つは、それなんですよ。

後は、亡くなった人の魂は、それまでお腹も減るし、眠くもなります。
でも、49日経つと、食べ物の香りだけでお腹が満腹になるようになり
お線香の煙で(これも香りなんですけどね)安らぎを感じるようになります。
そして霊界へ帰る時なのです。
霊界へ帰らなくては、輪廻出来ませんからね。
あの世が本来の居場所なんだとわかっていても、別れは辛いですよね。
でも、一度成仏した魂はそんな辛さも忘れてしまいます。
それこそ冷たいようですけどね (笑)
でも、お盆やお彼岸に呼んであげれば来てくれますよ。
ただ呼ぶだけでは、駄目ですけどね。
お清めの塩について


葬儀に参列しました。帰りにお清めのお塩を頂きますよね。
その時、同僚が
「家の前で清めの塩を振って、亡くなった霊が付いて来ないように
 するなんて亡くなった人に失礼だ。
 だから、私はお清めの塩はしない。」
と、言っていました。
これってどうなんでしょうか?
これはいけないことなのでしょうか?
祖父や祖母、親しい知人などが、亡くなっていってしまった場合
自殺や他殺ではない訳だし、未練はあるかもしれないけれど、
怨念や悪意がある霊だとは思わないので、身を清める為の『清めの塩』と
いうのはどうかと思うのです。
悪い者や、汚い者な訳ではないのに『清める』というのはその相手に
失礼じゃありませんか?
また、お清めの塩の本当の意味での理由を知りたいです。


この家とは誰の家ですか?
まさか相手の家の前じゃないですよね?
もしそうなら、それは大変失礼ですよぉ。

自分の家の前ならその考えは間違えですよ。
どんなに親しくても、相手はもはや魂となっていますからね。
それに付いて来るのは、そのお葬式の本人だけとは限りません。
お葬式には、関係のない浮遊霊が寄って来ますからね。
「関係のない浮遊霊を家に連れ込まないようにする」という意味で
家に入る前に塩を振るんですよ。
ちゃんと自分を守ると言う意味があるんです。
失礼だなんて事は決してありませんからね。
亡くなり方にもよりますが、生きてた時とは違うのです。
そこだけは、きちんと生きてる人間・霊と分けて考えて下さい。
悪気がなくても付いて来るという事もありますからね。
「その程度なら良いわ」と思うなら構いませんが、
他の霊もいるという事をお忘れなく。
死んだらどんな風に変ってしまうかもわかりませんからね。
自殺や他殺じゃなくても、なんらかの救いを求めてたり
訴えがあったりしますからね。
中には「側にいたから・・」と付いて来てしまう霊もいますから。
それでは成仏も出来ませんよ。
だから、あなたの来る所はここではないよと言う事を教えて
あげる為にもやった方が良いかとは思いますけどね。

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