忠 臣 蔵


  吉良家上屋敷跡

吉良家上屋敷跡 墨田区にある屋敷跡です。
ここでお茶会の後、酒を飲んで寝ている所を赤穂浪士に攻め込まれ、逃げようとしたのだが捕まり、ついに止めを刺された所です。

幕府の判決に不服を持った浅野家の家老:大石内蔵介をはじめとする赤穂浪士達は、翌年の12月14日に討ち入りした。

ここも当時は、とんでもなく広い屋敷だったようです。
この近所一帯が吉良家の敷地だったようです。
騒がしい異様な状況に気がついて慌てて小屋に隠れるが見つけ出され、大将の敵をとろうとする赤穂浪士達にまず腹を刺された。

一気に殺さないよう赤穂浪士達は、言い渡されていた。
この気持わかる気がする・・・

本所松坂町公園由来 庭に引きずり出される吉良・・・
赤穂浪士の物凄い殺気におびえ、
オロオロうろたえる・・・・
何時もの暴言は、一言も出なかったようだ。
偽りの謝罪をする吉良。
自分の命が惜しくて謝る。

それで許してもらえると思ってたのか・・・
駄目元で命乞いをしたようだ。

しかし・・・
首を取られる吉良・・・・

そうとう恐かったらしい。
幕府が味方についてくれてると思い強気だったから、わがままし放題。
恐いものなしだったが、この時ばかりはもう追い詰められて、かなりパニックしたようだよ。
本当は、一人じゃ何も出来ない恐がりで根性のない、いじけた親父だから・・・

私は、今回ここに来るまで吉良の姿って、何かの勘違いか?
イメージが、痩せてギスギスした陰険な感じのジジイかと想像してたんだけど・・・

ここに吉良 吉良を感じようと探したら・・・
この親父まだ隠れてる・・・
隅の方にあぐらをかいて背中を丸め、肘(ひじ)をつき、片手にキセルを持って、何やら「ぶつぶつぶつぶつ・・・」文句らしきことを言ってる・・・・
落ち着きがない・・・
「また来たか」という顔をして、イヤ〜〜〜な目で、チラッと私を見るんだけど絶対目を合わせない。
そっぽを向いて目をそらす。
自分だけじゃ祟る根性もないくせに!

吉良首洗いの井戸 姿は、以外に少しぽってりした感じ・・・
心は、冷めた人だね。
自己中そのもの。
でも、根性なしだ。

嫌いぃ・・・ この親父・・・

全然反省してない・・・

捕まった吉良 とても寒くて雪は、薄っすら土の表面に見える程度だったと思う。
その時の吉良の姿は、薄い白い着物一枚。

でも、今ここにいる吉良の姿は、豪華な何単にもなった着物を着てるよ。
頭には、お雛様(おひなさま)のような烏帽子。

全体的に茶色と黒のイメージで、金が混ざってる模様の着物だ。
腐ったじじぃ・・・

何時までもそうしていじけてればいいんだ。
あなたなんか生まれ変わって来なくていいよ。  って感じぃ・・・・

  萬 昌 院

萬昌院:看板 萬昌院:吉良上野介と清水一学の墓がある。
寛永2年(1625年)5月に吉良義定の夫人を葬ってから、吉良家との関係が生まれ、上野介の屍もここに葬った。
上野介を手当てした医師。栗崎道有の墓もある。

吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)、江戸時代中期の高家。寛永18年(1641年)9月生まれ。
幕臣吉良義央(吉良上野介)が元禄14年(1701年)勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)「 浅野内匠頭長矩 」をはずかしめ、殿中で刃傷せられ、わずかに死を免れたが、長矩の遺臣大石良雄らに殺された。討ち入り事件をきっかけに吉良宗家は断絶。享年62歳。

吉良上野介については浅野家家臣によって内匠頭の墓前に供えられた首級を泉岳寺より引取り(その時の証文がある)栗崎道有によって遺骸と縫合され、その他の傷口も丁寧に手当されたのち牛込萬昌院に葬られた。
萬昌院が大正7年に東中野の功運寺に合併される時、上野介を収めた瓶棺も無傷のまま発掘され、当時の住持が墓を開けたところ首も縫合され土葬されたそうです。

吉良家代々の墓 吉良家代々の墓あります。
やっぱりここもイヤな感じぃ・・・
吉良は、「ぶつぶつ・・・・」 と 文句! 文句! 愚痴! 悪口!

あんたねぇ・・・ いい加減謝ればぁ?

「ふん!!!!!」と・・・

くそおやじぃぃぃ・・・

良かったわねん・・・ 首付けてもらって!
性格悪いし、嫌われ者だったくせにぃ・・・
一応お線香上げるけど、供養はしない!
する気にならない・・・ (-.-)ボソッ

  浅野内匠頭長矩終焉之地

浅野内匠頭長矩終焉之地
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながつぐ)

播州赤穂藩(5万石)3代目藩主。寛文7年(1667年)8月生まれ。
元禄14年3月14日殿中にて刃傷事件を起こし、取り調べの後、田村右京大夫健顕の屋敷に預けられ、夕刻に屋敷の庭で切腹させられた。
享年35歳。
この時、吉良は、お咎めなし。


現在は、ここにはこの慰霊碑だけが残されているだけです。

  天 徳 院

梶川与惣兵衛墓 梶川与惣兵衛の墓がある。
梶川は、浅野内匠頭が松の廊下で、吉良上野介に斬りつけたとき、後ろから抱き止めた。
吉良は、この人のおかげで命拾いをした。。。  一度はね。

梶川与惣兵衛の当時の役職は「大奥留守番役」(江戸城大奥の渉外責任者)である。 3月14日は将軍が、勅使・院使に答礼をする日であった。
梶川与惣兵衛は、大奥から将軍夫人の口上と慰斗包などをあづかり、式典会場である白書院の近くで、儀礼典礼指導役の上野介に式典における自分の役目の説明の確認をしていたところである。
尚、梶川与惣兵衛は貞享元年(1684年)に江戸城において、老中堀田正俊が、従兄弟の老中稲葉正休に刺殺されるという第一回目の刃傷事件があった時もその現場にいた。
不思議な因縁である。

梶川与惣兵衛 静かですよ。
とても物静かな人のようです。
それにこの人は、もう成仏してるようですよ。
自分は、冷静にお役目を果たしたまでと・・・
冷たい訳ではないけど、冷静に物事を判断出来る頭の良い人だったようです。

吉良とこの梶川与惣兵衛は、近くにいるんですよ。
天徳院と萬昌院は、目と鼻の先なんです。

一度は、命を救われたんだからお礼くらい言えってぇ〜の・・
お礼を言ってないんですよ・・・ 吉良は・・・

  泉 岳 寺

赤穂浪士のお墓は「泉岳寺」にあります。
浅野内匠頭長矩、阿久利、の他、
大石良雄、主税・・・四十七人のお墓があります。

蔓松山泉岳寺は、徳川家康が少年期に凭った今川義元の菩提を弔うため、慶弔17年(1612)外桜田の地に建立し、今川家緑りの下野(栃木県) 大中寺十二世門庵宗関和尚を請して、開山第一世としたことに始まる。
旧幕府時代は関三刹(三大僧録)の一つ大中寺の末寺として、また江府三ヶ寺の一つとして蝕頭をつとめ、また江戸三大学寮の一つとして、曹洞宗門の学僧が常時百名以上止宿する学問所として重きをなす。
間もなく大火に罹り焼失し現在の港区高輪の地に移転。
この折、朽木、水野、毛利、浅野、水谷の五大名が移転の奉公を勤め、その後泉岳寺外護の檀越となる。
播州赤穂浅野家との関わりは、この時に始まる。
元禄赤穂事件以後四十七義士の香華所として知られる。


赤 穂 浪 士 四 十 七 士
討ち入り前
大石内蔵助良雄
吉田忠左衛門兼亮
原惣右衛門元辰
片岡源五右衛門高房
間瀬久太夫正明
小野寺十内秀和
大石主税良金
礒貝十郎左衛門正久
堀部弥兵衛金丸
近松勘六行重
富森助右衛門
潮田又之丞高教
堀部安兵衛武庸
赤埴源蔵重賢
奥田孫太夫重盛
矢田五郎右衛門助武
大石瀬左衛門信清
早水藤左衛門満堯
間 喜兵衛光延
中村勘助正辰
菅谷半之丞政利
不破数右衛門正種
千馬三郎兵衛光忠
木村岡右衛門貞行
岡野金右衛門包秀
吉田沢右衛門兼定
貝賀弥左衛門友信
大高源五忠雄
岡島八十右衛門常樹
武林唯七隆重
倉橋伝助武幸
村松喜兵衛秀直
杉野十平次次房
勝田新左衛門武堯
前原伊助宗房
間瀬孫九郎正辰
小野寺幸右衛門秀富
間 十次郎光興
奥田貞右衛門行高
矢頭右衛門七教兼
村松三太夫高直
神崎与五郎則休
茅野和助常成
横川勘平宗利
間 新六光風
三村次郎左衛門包常
寺坂吉右衛門信行
討ち入り 47士墓
47士墓
47士墓 大石内蔵助良雄像

いやぁ〜〜〜〜
全員にお線香を上げるの疲れるぅ・・・  (^_^;)
良い運動だわ。

首洗いの井戸 しかし・・・・ ここのみんなは、本当に満足そう。
堂々としてる。
みんな切腹させられたのに、それを後悔してる者は一人もいない。
無事大将の敵を取って誇らしげだ。

吉良と違ってみんな本当に大将を大事にしてたんだなぁ。。。
吉良の家臣なんて、まともな人は殆どいなかったみたいね。
みんな欲ボケしてて。

血染めの石 持って行ったお線香が足りなくなっちゃって100円で買いました。 (^^ゞ

供養は、一人一人にやるとちーと大変なんで一人一人に声を掛けながら、お線香を上げた後で、まとめてみんなに対してやる事にしました。


ここでは、忠臣蔵名物の太鼓や半被を売ってましたよ。

疲れたぁ。。。。

私はあくまでも中立でものを見ています。
そして 見たまま、感じたまま を書いてます。
赤穂浪士をヒーロー扱いしている訳ではありません。
吉良ゆかりの土地の人の中には、気分を害される方もいると思いますが、
これが私の感じた事実ですのでご了承して下さい。
単なる私の好き嫌いで悪く書いてる訳ではありません。
良い物は良い。悪い物は悪い。私は誰に対してもそうです。
ひいきや差別は決してありませんので。
結城 瞳


戻 る