近藤 勇 【新 選 組】 |
文久3年(1863年)京の地において、新選組を組織した近藤勇の生家宮川家は、武州多摩郡上石原村(現:調布市野水1丁目)で、大沢(現:三鷹市大沢)と境を接する辻と呼ばれた所にあります。 勇の幼名は勝五郎。末っ子の勝五郎は、父久次郎の愛を一身にうけて育ち、幼年時代の父からの感化で、近藤勇に大きな影響を与えているといわれています。その父親から『三国史』や『水滸伝』(すいこでん)などの英雄伝を読み聞かせてもらい、勝五郎はこれらを通して忠孝の思想的観念を芽生えさせていったと思われます。15才の宮川勝五郎は、嘉永元年(1848年)11月に、兄二人と共に近藤周助の門に入門。 一番年少にもかかわらず、稽古には人一倍熱心だったそうです。 嘉永2年6月、入門後8ヶ月で周助より天然理心流の目録が与えられ、周助も勝五郎の剣の素質の素晴らしさに密かに目をつけていた。ある夜、盗賊が数人宮川家に押し入り、その際兄と率先して斬りつけ、賊を退散させたそうです。この話を久次郎から聞いた周助は、勝五郎の機智に富んだ勘の鋭さ、度胸の良さに感服して、近藤家の養子に迎え天然理心流四代目を継がせようと決心したといわれています。
![]() この辺は、刑場跡です。その一角にある慰霊碑です。 ![]() しきりに話し掛けてくるぅ・・・ なかなか可愛いやつ。 (^^) ここには、ファンの為のノート置きがある。 こんなの初めて見た(笑) ![]() 慶応4年に、近藤勇と新選組を離脱後、松前藩(北海道)に戻り、樺戸監獄の剣道師範をした。 大正4年1月5日に北海道小樽で76才(77才という説もある)で病死。 ![]() 刑場だったので、他にも沢山死んでるはずなんだけど・・・・・ ここの空気は、きれいですね。 悪いモノは、何も感じませんでしたよ。
![]() 法号は「貫天院純誠義大居士」 首は京都の三条大橋下流にさらされたが、土方歳三が持ち去り会津若松市天寧寺の奥、愛宕山中腹に埋めたという説と、遺髪が埋葬されているという説がある。 ![]() また土方歳三など一行が会津に来て、戦闘に参加した際、この墓を参詣したと伝えられる。 墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。毎春4月25日の命日には、墓前祭が執り行われているそうです。 ここ陣所跡にも当時の書類やファンのためのノートが置かれているそうです。
現在生家は取り壊され、産湯の井戸が残るのみ。 ![]() 勇が板橋で斬首された時は、勇五郎は16才で、養母つねと瓊子の三人で牛込二十騎町の家を手放し中野村本郷(現:中野区本町2丁目)の成願寺という寺に住んでいた。 勇のかつての門人から「板橋の問屋場に捕らわれているらしい」との話を聞いて、何度も板橋まで勇の安否を気遣って訪ねている。 わからないでいる所「今日は立派な旗本が斬られるそうだ」という噂を耳にし、はからずも養父が斬首されるのを目撃してしまう。 実父音五郎と勇の門人に相談した結果、翌々日の27日「何とか遺体を持ってこよう」ということになり、勇五郎と音五郎、そして門人等7人で夜板橋に出かけ、刑場の番人に包金を握らせ、首のない遺体を三鷹の竜源寺まで運んで埋葬した。この時の遺体の確認は首がないので、証拠は京の伏見街道墨染で伊東甲子太郎の残党によって狙撃された鉄砲の傷跡であったといわれている。
![]() とても広い敷地跡である。 元々は、反対側の宮川家敷地内にあったそうだ。 宮川家もかなり広かったらしい。 移転を数回繰り返し、今の近藤家の敷地内に移されたそうです。 宮川家と近藤家は、お隣さんな訳ですねぇ。 ![]() ちょっと古そうな建物が数件ありました。 弟、勇五郎は、昭和8年まで生きてた人です。享年83歳。 昔の人にしては、長生きですね。 90歳近くまで生きてた訳です。 様子を見に中へ入ると・・・ 本当に広い!!! 今は、近藤家の子孫が管理しているのでしょうね。 明らかに新しい誰かが今も住んでいると見られる家もありました。 奥へ進もうとある寺子屋風の建物の横を歩いていると・・・・ ![]() 「はーい!」って男の子の声が聞こえて・・・・ びっくりしたぁ・・ この窓の奥から聞こえました。 どう見ても誰も住んでないし、人の気配もありません。 当時の生徒なんでしょうね。 ![]() 土の道で落ち葉なんかが落ちてるんだけど、それを踏み進んで来る。。。 がっさ!がっさ! という足音・・・ 軽い音です。 これも子供ですね。姿は見えませんでした。 悪い感じもありません。 そろそろ外へ戻ろうと、向きを変え進むとまた直ぐ右の方にチラッと見えた。 子供の霊です。 この霊は、一瞬でしたけどハッキリ姿が見えました。 赤と白の着物ともんぺを着た、ちょっと大きい子です。女の子でしたねぇ。 でも・・・ この子、赤いずきんをかぶっていました。 防空頭巾でしょう・・・・・ たぶん。 この子は、この寺子屋と関係ない子のようです。 戦争で亡くなった子でしょうか? ここに子供達が楽しそうに多くいるので、別の所から来たのか? それともここで死んだのか? 一瞬で消えてしまったので、話は出来ませんでした。 ここで感じたり見た霊は、みんな子供ばかりでした。 竜源寺、町田の小島資料館、京都の壬生寺、岡崎の法蔵寺の4ヶ所に近藤勇の胸像はあります。 その他にも寿徳寺の門前碑、JR板橋駅前の絵碑と墓、寿徳寺近藤墓、竜源寺の墓、会津若松の墓・・・などに、墓と言い伝えが場所によって異なり、一体本物は何処なんでしょうねぇ・・・ まったくぅ・・・ ( #-"-) 体の方は親族の手で三鷹の竜源寺に葬られたというのが本当らしいです。 しかし、首の行方はわからないそうで、文献を調べると古い新聞記事に『近藤勇の首塚を見た』という記事があったそうです。その文献によると『京都の清水谷の裏に高さ2尺余りの石碑があった』と書いてあるらしいです。『近藤勇の首級を埋む』と刻まれており、傍らに近藤の別当を勤めた者の小碑があると確認されています。 近藤勇の墓は、岡崎の法蔵寺と会津若松の天寧寺と伝えられていますが、京都では『粟田口に埋められている』ということです。しかし、町田の資料館にある『異聞録』には、ほぼ文献と一致する内容が載せられているということです。 しかし、実際に「見た!」という記録がない為に、どこに埋められているかは謎になっています。 本当に有名人って・・・・ (-.-)ボソッ 本人もさぞかし疲れるわよね。 結局こうして首と胴体が離されて埋葬されてる人達が多くいるんだよね。 これじゃ成仏出来ないよねぇ・・・
文久3年(1863年)2月27日。幕末の京都にその威名を轟かせた新選組誕生の日です。 この新選組は元々壬生浪士隊といい、幕府が何かとぶっそうな京都の警護の為、清川八郎の提案で支度金50両という大きな特典を付けて江戸で募集したものです。 ところがこの巨額な支度金に釣られて応募者が殺到。 幕府は予算が足りないので結局全員10両で我慢させました。 一行は意気揚々と文久3年(1863年)2月に江戸を出発しますが、京都に着いた途端、清川は「この浪士組の目的は尊皇攘夷だ」と言い始め、浪士組は空中分解してしまいます。 近藤勇らは、清川と山岡鉄太郎の暗殺を図りますが未遂に終わり、幕府が浪士組帰還命令を出した為、清川ら209名は3月末に江戸に戻りました。 清川は江戸麻布で結局幕府の刺客に殺されてしまいます。 一方、近藤勇、芹沢鴨、土方歳三ら24名はそのまま京都に残留、若き京都守護職・会津藩主の松平肥後守容保の配下に入って、8月には新選組を称しました。 新選組は当初から内部の粛正を繰り返します。
新選組の京都での活動は、文久3年の夏から慶応3年(1867年)の暮まで続きました。 その間、彼らは鉄の団結力で、尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行っていきます。 主なものだけでも次のようなものがあります。
しかし時代は新選組の思惑とは無関係に、明治維新へと流れて行きます。 彼らは慶応4年1月12日、軍艦冨士山丸に乗って江戸へ向かい、官軍に対抗しようとしますが、近藤勇は捕らえられて江戸板橋で処刑、沖田総司は結核のため死亡してメンバーも寂しくなってしまいました。 しかし、それでも近藤から組を引き継いだ土方歳三は、五稜郭で最後の抵抗を試みる幕府軍に参加します。 そして土方は、この戦闘で腹部貫通銃創を受けて死亡。 新選組の歴史を閉じました。 正義の味方か? 暴れん坊軍団か?(苦笑) 幕府のお抱え殺し屋軍団!
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結城 瞳 |
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