悔しさを乗り越えて

事故などで愛する人を失った人・・・
悲しみと悔しさで一杯でしょう。
何十年たってもその時の気持ちのままで、悲しみ・怒り・恨み・の心でいる人も
いるようですね。
「他人事(ひとごと)だと思ってそんなに軽く言えるんだ!」
なんて言わないで、まぁ聞いて下さいね。

冷静に読んで下さい。

事故でもいろんなケースがありますよね。

今回は特に交通事故を取り上げてみたいと思います。

事故などの場合、多くはどちらもが被害者であり、加害者であると言えます。
恨む前に、こちらの非を考えて見て下さい。
自分の不幸ばかりだけじゃなく、相手の不幸も考えてみましょう。
どう思う事で亡くなった人が、自分が、癒されるのか・・・
憎しみばかりが大きいと他が見えなくなります。
攻撃する事や戦う事が、癒しにはならない事を知って欲しいです。

そんな心で一杯のあなたは、鬼となっています。
相手を叩き潰しても、返って来ない人は、返って来ないんです。
それどころか因縁を作ってしまいます。
虚しさと悲しみだけが残ります。
それで亡くなった人が、満足する訳ではありません。

恨んでも恨みきれないなら、恨むのやめましょう。
その気持ちを愛の気持ちに変えましょう。

しなくてはならないのは、
亡くなった人が成仏出来るように供養してあげる事です
憎しみで一杯のあなたは、そんな事忘れてしまってると思います。
それでいったい誰が喜ぶんですか?
残された家族が喜びますか?
それで亡くなった人が、成仏出来ると信じてますか?

一日も忘れた事はない!
ちゃんと供養もしてる!
敵も取ってやる!
だから成仏してるに決まってる!

と思ってる方・・・
本当にそれで成仏してるのか聞いてあげて下さい。
あなたの意思で決め付けるのはどうでしょうか?
あなたの叫びたい気持ちもわかりますけど、魂の叫びも聞いてあげて下さい。

引きずらないで・・・
お子さんを亡くされた方に多いですね。

「死んだ子の歳を数えるな」と言う言葉があります。

これは、自分を不幸にするだけだからです。
何時までも忘れてはいけませんよ。
でもね。 悲しみの心までを続けるのは良くない事です。
あなた自身が前に進めませんし、お子さんも喜びませんよ。
死んだ子の誕生日を毎年祝っても、そのお子さんは成長する訳ではありません。
亡くなった人は、その時の歳のままです。

歳を数えて、「生きてたら何歳だからこうしてあげよう」としても
魂はその当時のままですからね。
それを喜んでくれる歳ではない。
理解が出来ない。
だから嬉しくない。

そうなります。
当時のままの扱いをしてあげるのが喜ばれますよ。

そして過剰な思い入れは、自分の為にもなりませんし
亡くなられた人も困ってしまいます。
成仏の妨げになってしまうからです。

無理をして自分の心に反して周りに心配かけないようにと明るくして
偽りの自分を演じる人も・・・ そんな事する必要ないんです。
負担が大きくなるだけです。
そして、いくら演じても、魂にはその本心が見えます。
自分のせいでそんな思いをさせてしまってると思ったら悲しみますよ。
自分を責めてしまう魂もいます。

全てが定めです。
意味もなく事故にあったり、亡くなったりはしません。
いろんな原因と意味があって、起きるべくして起こるんです。
「そんな事ある訳ない!」と思う人もいるでしょう。
でもそれは、自分を納得させる為の自分に対しての逃げなんですよ。
信じたくない事実もあるでしょう。
逆に嬉しい事かもしれません。
自分勝手な判断をしないで、真実を全て受け入れて下さい。
それが出来れば、あなたも、亡くなった人も道が見えるでしょう。

「この気持ちは誰にもわからない!」と言う残された人も亡くなった人も
いるでしょう。
その通りです。
本当の心の叫びをわかってくれる人などそういないでしょう。

周りに心配をかけまいと明るい自分を演じても・・

「良かった。それなら心配いらないね」と思う人。
「冷たい」と言う人。
他人は、勝手な思いを巡らせます。
励ましの言葉も「がんばって!」では、たいして意味がないでしょう。
言う方もそうとしか言えないのかもしれませんけどね。

それと同じで、亡くなった人の本心もあなたが想像してる事とは
違う場合が多いのです。
「あの人はこう言ってるように思える」なんてあなたの勝手な想像ですよ。
本人からちゃんとそう聞いたならそうなんでしょうけどね。
勝手な想像はいけません。

家族が被害者・加害者になると・・・
離婚したり、後追い自殺をしたり、家族を責めたりするケースが
結構ありますね。
どうしてなのかなぁ?
その程度の家族なんですかね?
こんな時こそ、この先の苦難を乗り越えて行く為に、家族で支えあって
いかなくてはならないのではないですか?
その怒りを、悔しさを家族に向けてどうするのですか?
それこそ亡くなった人が悲しみますよ。

最愛の人を失って未来図が崩れ、なんの希望も持てず自殺してしまう人や
死ななくても後ろ向きの人生を送ったり、
亡くなった人にそんな姿を見せれられますか?
愛する人に、「あなたがいなくても、私もこんなに明るくやってるぞ!」
って言えるように前向きに生きて欲しいです。
今は、とてもまだそんな風に思えなくても、なんとか毎日を大切に
生きていけばきっと新しい光は見えて来ます。

何十年たっても、忘れる事は出来ないでしょう。
忘れちゃ駄目だしね。
でも、その時の怒りや、悲しみ、恨みまでを引きずるのは、自分の為にも
亡くなった人の為にも良くない事です。
成仏の邪魔になります。
そしてあなたの進歩の邪魔になります。

思い出して涙する時もあるでしょう。
愛があるなら当然です。
でもそれで落ち込まないようにね。
亡くなった人には、亡くなった人の運命が、
そして、あなたには、あなたの運命があるんです。

憎しみ悲しみを労わり(いたわり)の心に変えてみて下さい。

先に逝った人を追いかけても逢う事は出来ませんよ。
永遠に逢えなくなります。

先に逝った人を成仏させてあげて、あなたも残りの人生を、
試練を乗り越えて時期が来るまで、人間らしく楽しみも悲しみも体験して、
自分が業を作らないように最後まで生き抜いて下さい。
そうして成仏すれば、また輪廻して来世で再会する事が出来ます。
だから、また逢う日までのお別れの意味の「さよなら」をしてあげましょう。
「またね」って。

今はまだそんな気持ちになれないと言う人も、
気の済むまで泣いたら良いですよ。
その後は、本当の笑顔を取り戻せるように無理しないで、
ゆっくりでも良いんです。
前向きに進んで行けば。
そんなあなたを亡くなった人も喜んでくれますよ。


私は、お子さんを亡くされた方で心配な事があるの・・
お子さんが一人じゃない方。
「残されたこの子までまさか・・」と要らぬ心配をし過ぎて
良くない想像をしてしまったり。
心配のあまり縛り付けた育て方をしてしまったり・・・

他でも書いてますが、言霊(ことだま)と言うのを知って下さい。
「そうなって欲しくない」という思いで考えてしまったり
言葉に出してしまったりしてるのはわかります。
でも、その言葉・文字・想像にあまりに念がこもりすぎると
それが本当になってしまう事があります。
自分が不運を呼んでしまうのです。

だから良い事を想像して言葉にして下さい。

マイナスの気持ちのままでは、いずれにしても不運の道から外れる事が
出来ないです。

怒りと悲しみを生きる勇気に変えて下さい。

亡くなった人は、次の人生に進む為に行かなくてはならない所があります。
だから早く成仏をしなくてはなりません。

残されたあなたは、まだこの世での修行が残っています。
そして亡くなった人の魂が成仏してないのなら
あなたが成仏出来るようにしてあげると言う事が出来るのです。
今、あなたがしなくてはならない事を知って下さい。
魂の本音をわかってあげて下さい。

果たして今まであなたがやって来た事は、正しかったのでしょうか?

事故現場に何時までもお花を供えるのは・・・

何時までもそれを続けて引きずると、亡くなった人が心配するから
それで成仏出来なかったり、成仏していても上(あの世)で悲しむから
良くないと。。

もう一つは、残された方の人間の問題です。
要は同じ事なんですけどね。
引きずるのは後ろ向きです

一つ良いとすれば、その事実をそこを通る他のみんなにも知らしめる事が
出来ます。
花があれば、
「あぁ、ここで人が亡くなったんだなぁ・・・
 気をつけないと・・・」
と言う気持ちになれます。

成仏していなければ、事故現場にもその方の魂はいます。
花をくれるなら助けてくれと思うでしょう。

加害者がお花を何時までも供えるのは、気持ちの上でも良いと思いますよ。
何時までも償いの気持ちを忘れないよう。
また同じ取り返しのつかない事故を起こさないように。
加害者なのに、「事故の事は早く忘れたい」なんて言う人がいるそうです。
どんな心の持ち主なんだろうか?

加害者は忘れられても、被害者サイドは絶対に忘れる事はありません。

加害者も被害者と言う時もありますよ。
法的には、相手が悪いと言う事になっても、被害者側が悪い場合もありますね。
どちらも逆恨みをしないでね。
自分の非は認める事です

そして償いの心を何時までも忘れない事です。
どちらの家族も大変な試練が訪れるのです。
「顔も見たくなくない!」と言う人と、来て謝って欲しいと思う人がいますね。

心から償なおうとしている相手に対しては、それを認める心を持って下さい。

「償いたい」と言う気持ちがあっても、弁護士などに止められるはずです。
お互いを刺激しないようにと言う事と、罪を少しでも軽くする為です。
これは、加害者側の弁護士としては、当然の事ですから恨めません。

そして加害者にも家族がいると言う事。
やはり家族を守らなくてはなりませんからね。
冷静に考えればわかるはずです。

どんなに「すまなかった」と言う気持ちがあっても、家族の為を思えば
足が止まってしまう事も多いでしょう。
それでも、「自分が悪いのだから」と家族を犠牲にしても、
償いに足を運ぶ人もいるでしょう。

そんな相手の気持ちもくんであげてくれると良いと思います。
一生をかけても、償えるものではありません。
それを覚悟して、詫びようとする人をどのような目で見られるかで
あなたの心も成長出来るでしょう。

逃げる相手は、許せないですね。
しかし、それを追いかけて追い詰めても何になるんでしょう?
そんな敵を取る為に長い時間を費やしている間に、他に出来る事が
あるんじゃないですか?
追いかける間は、癒されません。
辛いだけの時が進むだけです。
相手(裁判)に勝ったとしても・・・
今まで、それに費やした時間のせいで、失ったものも多いはずです。
同情もされるでしょう。
でも、同情なんかされたいですか?

事故の場合は、殺意を持って殺されたのではありません。
でも、自分の不注意を心の中で認めない人もいます。
それでは、憎まれても当然ですね。

人としての心の持ち方が問われますね。

しかし・・・
事故でも他の霊的作用で引き起こされる場合が結構あると言う事も知って下さい。

死んだら終わりじゃないです
残されたあなたもそこで終わりじゃないです。
亡くなった人も、あなたも、家族も、みんながそれぞれの新しい幸せを
見つけられるようにと、私は願っています。

事故なんて、みんな起こしたくて起こす人は、いません。
自分一人でも、人を乗せてても、人の命を乗せて走ってるんです。

自分が安全運転しているつもりでも、はたから見たら
かえって危険な運転の人もいます。

どこから人や動物が飛び出して来るかわからないのです。

車が急に故障する事もあります。

運転手が急病になる時もあります。

こんな悲しい思いをしてる人達が沢山いるんです。
ウインカーくらい出して下さい。
左右を間違わないようにね。

大型車だからとデカイ顔して走らないで下さい。

タクシーだからとデカイ顔して走らないで下さい。

自分の車体のサイズくらいわかってて下さい。

バイクの人は、すり抜けしないで下さい。

煽ったりしないで下さい。

急ブレーキを踏まなくて済むように運転して下さい。

信号が青だから、横断歩道だからと安心しないで。

自分の運転に自信を持たない事が大切です。

人がいれば、車は止まってくれると思わないで。

人は車には勝てません。

歩行者は、横断歩道を渡りましょう。

自転車だからといって、歩道や車道を自由に走る事が出来ません。


私も幼稚園の頃、青信号で母に手を引かれて横断歩道の真中まで来た時、
他の車は全部止まってるのに、一台の真っ赤なスポーツカーが減速しないで
私の鼻を擦って走り過ぎて行きました。
あの時の光景は、今でもハッキリ覚えています。

交通事故も何度も見ています。

私は、恐くて今でも車の免許を持っていません。
車を運転して道を走るのが恐いんです。


= 追 記 =
自転車で車道を走るのは危険ですし、歩道でも歩行者に十分注意をして走るようにしましょうね。
トラックなどの大型車の巻き込み事故は非常に多いんです。
真横に来られると見えないんですから。
法律上走って良いからといっても危険度が高いです。
走っちゃいけないんだと思っていた方が良いですよ。




何時までも縛り付けないで

亡くなった相手を愛するあまり何時までも落ち込んだり、側にいてと止めたり、
お骨を埋葬しないで何時までも家に置いて、側にいて欲しいと願ったり・・・

これは、生きている人間の勝手なわがままです。
いくら側にいたくても、相手はもう肉体のない魂です。
本来の居場所に帰してあげるのが相手の幸せなんです。
どうも勘違いをしている人が多いようですね。

この世は修行の場

生かされてる間は、まだ修行をしなさいと言う事なんです。
寿命が来るまで、それは続きます。
試練も一杯与えられます。
何らかで本来の寿命より早く死んでしまった場合は、
それだけ早くこの世に戻されます。
本来魂はこの世にいる時間より、あの世にいる時間の方が長いのですよ。
でも、前世の業をしょってる人や、大切な役割を持たされている人は、
早く修行に出されます。

輪廻とは、その為にあるのです。
前世で成し得えなかった事を出来るようにしなくてはなりません。
そうやって自分の霊格も上がるのです。
何度輪廻を繰り返しても、同じ事を考えしてたのでは向上しません。
また、今世で再会する事の出来なかった運命の人や、前世からの縁の人に
うまく巡りあう事が出来れば進歩もするでしょう。
その為には、魂は成仏をしなくてはなりません。
引き止めたり、邪魔してたらあの世にも帰れず、当然輪廻も出来ません。

あなたに寿命が来て死んだとしても、ある人に引き止められてたり、
行きそびれてた魂は、この世に残されたままとなります。
決して一緒に行くと言う事は出来ません。
だから、あなたが成仏して生まれ変わっても、その魂を持つ人間と
再会する事は出来ないのです。
今世の事ばかり考えないで下さい。

親子・夫婦・恋人・親友・・・

みんな同じです。
来世でまた再会出来るように「さよなら」ではなく、「またね」と
送り出してあげましょう。

しかし・・・逆もあるのでこれまた困りもんです・・・
魂の方が、この世の愛する人にしがみついて、あの世に行くのを
拒んでる場合もあります。
ひどいとその命さえも取って、自分だけのものにしようとしますからね。
一緒になんていられないのに・・・
わかってないんですよ。
わかってない典型としては心中です。
それこそ死んだらお別れです。
たまに連れ添った霊の目撃談がありますが、あれは自殺の場合有り得ません。

もし自殺で親子連れやカップルとかを見たら、それは一体の霊の念が作り上げた
念像ですよ。

愛する者に、幸せな輪廻をさせてあげたければ、
ちゃんと一度お別れする事が必要です。

そして霊に離れてもらえなくて、無理にでも成仏させてあげないと
あなたも生気を段々失い、それこそ死んじゃいますよ。
愛してたら成仏するようにしてあげるのが本当の愛ですよ。

それにストーカー霊と言うのもいますからね。
こっちは、愛してなんかいないのに、ひつこい霊・・・
これは、なんとしてでも追い払わないとね。
それでも、あなたに優しさがあるならば、相手の気持ちもくんであげて
成仏出来るようにしてあげると本当は良いのですけどね。
それは、霊にとってもあなたにとっても良い事ですよ。




無意識

無意識程、タチの悪いものはない。

つい無意識で・・・とか
無意識でやった事だから・・・とか

そんな言い訳で済まされない時がある。
無意識と無知は違うけど、似たようなもんでしょ。

わかっててする人と、わからないでする人では全然違う。

わかってやる(言う)人なら、それがいけない事だと知っている訳だから
改心させるのも楽だよ。
わかってない人は、まず「何でそれが悪い事なのか」を教えなくちゃならない。
「どういう事が良くない事の中に入るのか」を教えなくちゃならない。
ただそれは、いけない事なんだと簡単に言っても「なんで?」と
聞き返してくるでしょう。
聞いて来ないで「ふーん、そうなんだぁ・・ これは、悪い事なんだ」と
単語だけ、行為だけ、を悪いと覚えても、それでは理解はしてないから
応用がきかない。
ちゃんと意味を理解しなくては、違う事で同じ事をしてしまうから。
悪気がない分タチが悪いぃ・・・

こういう人は、何で怒られるのか? 嫌われるのか? 自分でわからない。
だから自分では、直しようがない。
口で言って理解してくれれば良いけれど、こうすると何で相手が
そんな気持ちになるのかがわからないから理解も出来ない。

教える方も大変だぁ。
何で理解できないのか・・・
その人の目線まで下がって考えないとわからない事です。

傷つけるつもりじゃなくても・・・

相手に対してじゃなくても・・・

ほんのささいな言葉が、人の心を突き刺す事があります。

自分では、いじめてるつもりで言った言葉じゃなくても
相手の心がそれで傷つけばいじめです。
相手の取り方にもよりますけどね。
普通を装ってても本人は、とっても気にしている事ってあるもんです。
けなすようなものの言い方は、やめましょう。

けなされていじめられても、それが喜びと感じ
嬉しい人には、別ですけどねぇ。

最近の若い子に多いけど、気に入らない相手に対して
聞こえるように 「死ね」 と言います。
軽い気持ちで言ってるのでしょうが、これは絶対言ってはならない言葉です。
どんな人でも、人間が人間に対して死を命令したり、
指示する権利は、ないのです。

ただ言っただけでも、それは 言葉の暴力・凶器 です。

もしそれで本当に相手が自殺でもして死んでしまったら、あなたはどう思いますか?

せいせいしますか?
「本当にやってやんの」とバカにしますか?

そうじゃないと思いますよ。
一生それを引きずって生きて行く事になると思います。


育ちの事を気にする人がいますね。
「こんな育ちの人は、どうせこうだ」と決め付けたり、
よく、「育ちが良いからねぇ・・」なんて言葉も聞きますよね。
それは、誉め言葉です。
しかし・・・それを側で聞いている人が、自分の育ちにコンプレックスを
持っていたらどうでしょう?

それは、その場で差別用語と変ります。
何も言わなくても心の中は、傷つくでしょう。

それに育った環境で、全てが不幸とも言えません。
人には、それぞれ才能ってのがあります。
どんなに金持ちで、何不自由無くエリートコースで来た人でも
出来ない事が何かきっとあるはずですよ。

字が書けない、読めないと言う人でも、誰にも負けない特技があるはずです。


人を責めてばかりいる人がいますね。

責めたり、厳しくするのも場合によります。
良かれと思ってそうしていても、反発を受けたり、余計相手を追い込んだり、
逆に恨まれたり、傷つけたりする場合があります。

自分がそうだったから。

そうされて苦しかったから同じ事を他の人にして
仕返ししてるつもりになってる人。

それが正しいと思い込み、人にも強要してしまう人。

ひどい目に合わされたから仕返しする人。
罪を罪で返しては何もならない。
自分が汚れるだけ。
私の言う「目には目を」は、仕返しをしろと言う意味ではないよ。
それがどんなに罪な事なのか、身をもって知ってもらうと言う意味。
口で言って説明してもわからない人には、そうするのが一つの手
だと思います。

それがどんなに辛い事なのか知らないし、そうする事が正しいと
思ってる人に教えてあげるだけ。
恨んでやり返そうなどとしても罪が増えるだけだよ。
自分の心がすさむだけ。
それにそんな人のせいで自分が罪を犯しては、もっと自分が苦しむだけで
何の解決にもなりません。

これに対して許す事ができて、少しでも愛をもって出来る心があれば
理想だけど、なかなかそうもいかないよね。
愛の気持ちを持つと言うのも難しいよ。
本当に愛せない人っているものね。
そんな相手は、無視しかないよ (苦笑)
そんな相手を憎むより、自分の幸せを考えた方が良いよ。
憎む心にパワー使うなんてもったいない。


「贅沢言うな、身のほどを知れ、不平不満を言う前に感謝しなさい」
なんて説教する人いるよね。

誰にでも当てはまる言葉じゃないし、自分がそう言う環境で育ったから
それが当たり前でもないでしょう。
「不平不満を言うな」くらいはわかるよ。
言う前に感謝じゃなくて、忍耐とか根性でしょう・・
そして不平不満が言える程自分は、完璧に努力しているのでしょうか?
不平不満なんて、努力してやる事やってから、初めて言える事ですよ。

それに説教した本人も、人にそんな頭ごなしに説教出来る程
自分はそんなにちゃんとしているんでしょうかね?

自分が求めても求めても得られなかった愛情を
こんな形で人にあたるような真似して・・・
そんなんじゃ誰からも愛されないよ。
自分がされてきた仕打ちを思い出して・・
悔しいから同じ仕打ちを関係無い人達にするの?

違うでしょぉ・・・
だから優しくするんでしょ。
自分が欲しかった愛を
手に入らなかった愛を
逆切れの形で周りに返しても、それはもっと自分を追い詰めるだけ。
自分がされていやな事は、人にもしない!
こんなの小学生の道徳よ。
無意識に仕返ししてるんだねぇ。。
無意識じゃない人も中には、いるようだけどねぇ。


確かに私も厳しい所はあるよ。
でも、それだけじゃ心は伝わらない。
「感謝しろ」と言われてするものじゃない。
よく「先生や親に感謝しましょう。。」なんて言うけど
あんな押し付けはない。
だいたい感謝できるような相手なら、何時かそれがわかるはず。
救われなかった心の人に感謝の本当の意味は、わからないと思うよ。
感謝の気持ちなんて自然と沸いてくるもので、それが本当の感謝の気持ちだよ。

また、感謝は求めるものでもない。

当り前の正論を言ったって、相手を押さえつけて無理やり
「これが正しいんだ!」と押し付けても、それは通りませんよぉ・・・
その場、その場で何が正しいかなんて変りますよ。

まぁこれは、一概には言えないけどね。
どんな環境で育とうが、要は本人の問題なんだよ。
その過去をどう活かすかだよ。
ひねちゃ駄目よ。

相手を知って、相手に応じて言い方を考えたり
「この人にはここまでのジョークが通じる」とか弁えて
言葉を選んで話さないと誤解が起きたり、怒らせてしまったり、
追い込んでしまったりするから、いろんな人を見て
まず自分を知る事が大切だよ。
そして相手の立場になって考えて発言しましょ。。
そうすれば、あなたの言う事がその人にとって、どんな風に作用するか
わかるはず。

それから責任転嫁・他の話まで引きずり出してきて
相手をとことん責めるのは、決して良いとは思いません。ずるいです。

ある程度の相手の立場とか、存在や置かれている状況なんかを
考えて言葉を選んであげましょうよ。
それが心遣いですよ。

「こんにゃろぉ〜〜〜〜」って言う相手に対しても
負けずに食って掛かっていてはなにもなりませんよ。
ここで精神レベルが知れますよぉ(笑)
カッカすると言ってはならない事まで、つい言ってしまうもんです。
どっしり構えていましょう。
弱い犬程よく吼えるんです。

悪気がなくても、相手を押さえ付けたり
自信をなくさせてしまう事がありますから
気を付けて下さいねぇ。

そしてそれに気が付いたら素直に謝りましょうね。
心からね!

みんな笑顔が良いでしょ?
つまらない誤解から、気まずくなったりしたくないでしょう。
こんな時は、プライドも立場も捨てるんだよ。
じゃなくちゃ本気で謝る事なんて出来ないからね。




感謝

無意識にも少し書きましたけど
もう少しね!

感謝の言葉や気持ちを求めて世話をやいたり
親切を過剰にする人がいます。

してあげた事に対して自分の思った通りの応答がないと
「こんなにしてあげたのにぃ〜〜」とか
文句を散々言うのです。

確かに恩や義理をあだで返されたりしたら
そうでも言って愚痴も言いたくなるのもわかりますよ。
でも、全ての人に対して「私は、してあげてるのよ」
「感謝して欲しいわ」なんて気持ちでする事は偽善ですよ。
自分を良く見られたい、綺麗に見られたい、と言う気持ちがいっぱいで
時には、押し付けの親切もしてしまいます。

それで、「うるさいんだよ」と言われたりすると
過剰に 「私は、こんな酷い目に遭った・・・ こんなにしてあげたのに・・」 と悲劇のヒロインですよ。

まったくあきれるばかりです。
結局は、自己中なんですよね。

親切なんて気持ちでやる事ですよ。

確かに世話になったり、親切にされても態度が悪い人もいるからねぇ・・
それは、それで心のない人だと思うけどね。

そんな人達を、私はこう思います。
そういう 生き物 なんだなぁ・・・」と。

私は、普通の事でした事が人の役に立てばそれで良いのです。

それが余計なお世話の時もあると思いますが (^_^;)
その時は、ごめんなさいです。

立場が上だからとか、親だから、先生だから、
だけで感謝するってぇ〜のは、疑問ですね。

それに言葉だけの上っ面の感謝なんて嬉しくもなんともないですよ。

親切の押し売りをしといて「感謝しろ」はないですしね。

自然体の中から沸いて来る優しさと感謝の気持ちが本物ですよ。
「自分への見返りを期待して・・」ではなく。
相手を思いやる気持ちですよ。




トラウマ

いわゆる心の障害の一つですね。
過去の嫌な体験を引きずっている状態。

人それぞれ嫌な体験はあると思いますけど
それを「トラウマにしてしまうかどうか」は本人次第でしょう。

ひどい人だと、その記憶を無意識に封印してしてしまったり
そんな自分が嫌で別の自分を作り上げてしまい
別の人格までも作ってしまう。

これが記憶障害や多重人格です。

記憶がなくても、その傷は存在しますから
それに関係する言葉や態度・物などに反応します。
本人は記憶が抜けてる為、何故それに対して恐怖感を持ったり、
興奮したりするのかわからないから、それはそれで悩むでしょう。

そんな場合は、思い出さない方が良いと思うような事でも、
思い出してその原因を明確にしてトラウマの元を拒否したり
抵抗するのではなく。
受け入れて、何でそうなったのか理解して、
「もう終った話なんだ。これからは、もうそうならないように」と
考えるべきだと思うなぁ。
そうすれば、それはトラウマではなくなる。

別の人格を作るのも、無意識の人と意識的な人がいる。
だから他の人が見ると多重人格に見えても、
本当は自作自演のもう一人の自分と言う事になる。
妄想癖のある人もそうです。
「こうだったら良いなぁ・・・」が、自分の中で事実となってしまう。
そして嘘の自分を演じる。
そうする事で、トラウマやコンプレックスから逃げようとしてる。

何の解決にもならないと思います。
前向きじゃないですよ。
違う方向へ背伸びしても、問題は解決出来ないでしょう。
また新たな嫌な思いをする事になると思いますよ。
違う自分を演じたりする必要なんかないですよ。
そんな事が出来るなら、別の人格としてではなく、
ちゃんと自分として強くなれるはずです。
恐がったら出来ませんよ。
これからの人生を幸せにする為に勇気を持って下さい。
イキイキしたあなたに、同じ苦痛を誰も与えられませんよ。
真実と向き合い、自分を責めては駄目です。
自分も相手も責めては、駄目ですよ。

気にしない事だよ。
今もまだ同じ嫌な思いをする原因が消えてない人も
自分を演じて変えるんじゃなくて、心から変わって・・・・と言うか
勇気を持って堂々としてれば周りも変わるでしょう。
それでも変わらなかったら・・・

その時は、逃げましょう (笑)
新しい環境に移るんです。
そして自分も穏やかになるんだよ。
せっかく新しい環境に移っても、自分がトラウマ引きずって
オドオドしてたり、壁を作っていたのでは、また同じ事を
繰り返す事になりかねないからね。
絶対孤独になっちゃいけないし、初めから逃げようとしてもいけないよ。

封印して忘れる必要もないし、別の自分を作る事もない。

本当の自分で正面から向き合うのが大切だよ。
偽りの自分を愛されるより、本当の自分を愛して欲しいでしょ?
無理して背伸びしなくて良いよぉ。
逆に高すぎるプライドも自分を苦しめる材料となるからね。
自分を過信するのもやめた方が自分の為。

知って欲しいのは、トラウマやコンプレックスを持つ心は
自分が作ってると言う事。
同じ体験をしても、それを心の引っかかりにしてしまうのは
本人次第で、気にしないで元気に生きる人も沢山いる。

受けた傷が大きくても、それを乗り越える勇気と強さを持とうね。
そうすれば人の痛みもわかる人になれるよ。

弱くて勝てない人は、人を憎み、ひねくれたり
同じ辛さを人に与えてストレス解消したり
どんどん自分を追い込んで行く。

悪いパターンに「どうせ自分なんか・・」と投げるタイプ
受けた以上に他に攻撃をする、逃避タイプ逆上タイプがいるね。
自分を責めて記憶異常を起こしてる人や多重人格になる人も良くないけどね。

多重人格の多くは、本当は自分の意識のある自作自演だと思うよぉ。
やってるうちに、それが本当に別人が自分の体に入ってると思い込んで
しまうようになるんだと思う。
結局は、自分が作り上げた人格なのに・・・

そんな事でトラウマが解決する訳じゃないのに。
要するに自分の心の中で逃げてるから何処に移ろうが
環境が変わろうが対応出来なくなる。
その為にまた新しい別の人格を作り増やしていく。
別の人格が増える程たいしたもんだと思う。

だってそんなに沢山の人達のプロフィールを細かく暗記してなくては
ならないから・・・
そして次々とそれぞれの人格を演じきる事が出来る。

それが出来るなんてすごい才能だと思うよ。
それを他に活かせばこんな苦労しなくて済むのに。

これを霊の憑依か、心の病気かを見極めるのがまた大変・・・
どうしてかと言うと、こう言う性格の人は、悪霊を呼びやすく
憑依も簡単に出来るからです。
初めから霊障なのか?
そんな性格に付けこんで来る霊も多いから
霊障と自演の両方の人がいたりする・・・

困ったもんだぁ・・・

単なるトラウマなら自分のやる気さえあれば必ず解消出来る!
勿論カウンセリングも必要だけどね。

諦めないで乗り超えようねぇ。




尊厳死と安楽死

尊厳死
人間としての尊厳を保って死に至ること。
つまり単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて、
「人間として」死に到ること、ないしそのようにして達成された
死を指す。

安楽死
苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに、
意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的に
行われる「死なせる」行為。
と定義されてます。

でもこの定義がどのケースに当てはまるか?
それぞれの考え方によって違うと思います。
だからいろいろと論争してますよね。

尊厳死

これは同じ死を選ぶとしても安楽死と逆で、苦しむのを覚悟して
延命治療や痛み止めから一切拒否して、自然に死を待つと言う事です。
安楽死と同じで、生きると言う事を諦めてしまった事に変わりはないですが、
その代わり痛みも、苦しみも、そのまま受けます。

そこまでしても、これ以上お金をかけて延命しても自分の心が辛いだけ・・・
家族にも迷惑をかけてしまう・・・
どうせ、もう何をしても遅かれ早かれ死ぬのなら、このままこうして治療を
受けると家族に負担もかける。
自分も何の為の延命なのかと思う。
そんな形で延命する意味があるのか?

自分もこんな状態でこの世にいても辛いだけ。

自然に死を迎えたい。
家で家族に看取られて死にたい。

しかし、植物人間になった人はどうなんでしょう?

遺書がある、ないでも変わってくると思います。

それから尊厳死には最終的に自然死ではなく、薬を使って自殺をする場合が
あります。
薬は医師から渡されます。

これが尊厳死の定義「人間らしく自然死を迎える」と言う事に
なるのでしょうか?
安楽死にしても尊厳死にしても結局は人間が決めて行う行為じゃないですか。

安楽死

これは愛なんだろうか・・・・

気持ちはわかるけど・・・

やはり神に逆らった事だと言う事は事実。
果たして自殺する人の為に本当になるのか・・・
本人の意思で死ぬ場合、いくら医師の手を借りても、それは自殺。
残った人達の目には、「これでやっと楽になれた」と見えるでしょう。
でも、それは間違えです。
肉体から離れた魂は、決して楽にはなれません。

苦しんで死ぬのも、その人の定めなんです。
ちゃんと理由があるのです。
だから最後まで戦って苦しんで死を迎えるのも仕方ない事なんです。
見てる方も辛いでしょう。。

そうやって苦しみを知るのです。

何故、苦しみを知らなくはならないか・・
それは、その人がその苦しみを知らなくてならない前世からの
理由があります。
もしくは、来世に関係しています。

ただし本人の意思がなく、周りが勝手に楽にしてあげると言う場合は、
自殺とはなりませんから、死んだ後も苦しむ事はないでしょう。
だからって、これを本当にやったら犯罪ですよ。
この事で犯罪者になる事を楽にしてもらった人が喜ぶでしょうか?

誰にもわからないようにやったとしら・・・・

現実にあるようですよ。
良い意味でも悪い意味でも・・・
邪魔だし、世話が大変だから・・と殺してしまう場合もありますよね。
これは、完全に悪意です。
愛は、ありません。
当然その人の罪となります。
人間にはばれなくても、神は見ています。
心の中までお見通しです。
怨まれるし因縁も産みますよ。
死んでも魂は残るのですからね。
殺せば片付くと思わないで下さいよ。

「こんな自分はもう人間じゃない」とか「疲れた・・」とか
先が見えてるのに、無意味なお金と、心の苦しみ、体の苦しみに
お金をかけてまで延命して苦しみを伸ばされる辛さに耐えられない、
こんなの生き地獄だと思う人もいるでしょう。
本人も周りも・・・

そのそれぞれの思い、心情は計り知れないと思います。
立ち会う家族は辛いでしょうね。
でも、安楽死もですが、家族の思いは同じでしょう。
早く楽にしてあげたい・・・・

しかし、それがその人達の運命なんですよ。
「そんなんじゃ神も仏も見捨てるのか?」とか
「神も仏もいやしない!」とか、訴える人達もいるでしょう。

動物なら許されるのにねぇ・・・

どうやっても、もう手遅れで時間の問題なら早く楽にしてあげたいと
考えますか?

それでも「一日でも一時間でも長く生きて欲しい」と思いますか?

これをどう考えるかは、人それぞれだと思います。
中にはその思いが単なるエゴになる場合もありますね。

これは、本人と周りの心の問題です。
同じ思いだったとしても、それで安楽死、尊厳死が成立したとしても
機械を止める・薬を使うなどの方法を取った場合は・・・
それは、やはり殺人であり、自殺であるのです。

尊厳死と言うなら、最後まで人間としてお迎えが来るまで戦って欲しいです。
助かる望みがまったくない・・・
だから人間としての尊厳を主張するなら、例え残りわずかの命の炎でも
その炎が自然に消えるまで待って欲しい。

行為的に命の炎を消しては、何の為にそれまで戦って来たのか・・・
どんなに辛く苦しくても、お迎えが来るまで、人はこの世にいなくては
ならないですよ。

決して自分の意志で死を選ばないで。
最後にこんなに辛く苦しい思いをするなんてと思うでしょうが
それが定めです。
それを乗り越えてこそ本当に楽になれるのですよ。
立派な死です。

この世が修行の場だと言う事を忘れないで。
厳しい事を言ってると思います。
でも、それが事実で、何より自分の為なんですよ。
生きてる時の苦しみ、痛み、辛さをどう向き合い乗り越えるかが
今後の行き先、輪廻した後の人生にひびいて来るのですよ。
その苦しみは与えられた試練であり、チャンスなんですよ。

人間界は不公平だと思わないで。
それには、前世からのちゃんとした理由があって、人それぞれの
人生が与えられるんですから。
次の人生を良くしたいのなら・・・
今の人生を受け止めて最後まで生きて欲しいです。

同じ覚悟して死を迎えるにあたっても、理由があって
後何日か・・・
「花嫁姿を見せてあげたい」
本人も「見てから死にたい」

「孫の顔を見せてあげたい」
本人も「孫を見たい。触りたい・・」

などの強い最後の願いがある場合、また違うのでしょうね。

その為なら医師の手を借りても、神に願っても、能力者に力を
借りても、延命をしたいと思うのでしょう。

難しい心の問題ですよね。
奇跡が起こらないとは限りません。
理由があって延命を希望する場合、やれる事をやれるだけやった方が
心残りがないと思いますしね。

私としては、安楽死は賛成出来ませんけど、尊厳死はケースによって
許されると思います。

それは、いずれにしても神の意志ではないからです。
どんな状況においても人間の生き死には神の定める所にあります。

それをどう判断されるかは、神の判断する事です。
いずれにしても、人間は最後まで人間なんですよ。
ただの生き物、植物人間となっても、果たしてそれが
本当にただの生き物となってしまってるのでしょうか?
医学的にもわからないところで、ちゃんと意思・感情を持っている
事もあると思います。

早まった安楽死はどうなんでしょうかね?
実は本人感情があって
「こんな状態でも生きていたい!」
「声を聞いていたい!」
「触れていたい!」
と思ってたかもしれませんよ。

奇跡が起こるかもしれないしねぇ・・

残された命の火をどう見守ってあげられるか・・・
その残り少ない時間で、何をしてあげられるか・・
最後ですから良い思い出を持って行って欲しいと思いますよね。

そして薬を使うなら、死ぬ為の薬ではなく、
いかに苦しまないで自然な死を迎える事が出来るように
使って欲しいものです。
法力も同じです。

これは、あくまでも私の思いです。
人間界のこの論争に関わるつもりはありません。
ただ人間界の中の話だけでなく、天から見た意見も入れて
私の思いを書いてみました。




分岐点

人間の一生の運命の筋書きは、全て決まってます。
進まなくてはならない道を間違えないで進むのが、
その人にとって正しい修行の道です。

でも、その道には、人それぞれ数回の分岐点があります。
ここが運命の分かれ道。

分かれ道が二つとは限りません。
ストーリーは、どの道を選ぶかで変わってきます。
決まってる人生でも、そうやって自分の意志で違うストーリーに出来ますけど、
そこでしくじると、とんでもないストーリーになってしまいす。
一度間違えても、また次の分岐点で戻る事も出来ます。

人生は、一本の映画です。
あの世に行ってから、自分の一生の映画の出来栄えを見る事になりますよ。
そこで、神や他のみんなに怒られたり笑われたりしないような人生を
送りましょうね。

運命は、自分で変えられる」というのは、これなんですよ。
決まっているけど、一番良い道をうまく選んで行かれれば幸せでしょうね。
でも、神は、意地悪ですからね。
教えてくれませんよ。

自分で選択しなくてはならないのです。
それもまた修行のうちなんですよ。
どの道を選んでも、修行に変わりないのですけど、
楽な道や、逃げる道を選んでたら、後で必ず困る事になるか、苦労しますよ。

どっちにしても苦労をしなくてはならないという事ですよ。
それが試練です。

苦労を避けた道ばかり選んで進んでる人は、それだけ
人生の勉強不足になりますからね。
それで人生が終ってしまった人は、苦労していない道をまたやらされる為に、
すぐに生まれ変わって、この世に追い出されますよ。(笑)

一からやり直しですよ。
輪廻を繰り返す毎に、霊格を上げないとならない。
その為の『修行の場』、この世ですからね。

何度繰り返しても、苦労して乗り越えて、進歩しなくては
霊格も上がりませんから・・・
何時までたっても、同じ事の繰り返しで、次の人生が良くなる事は
決してないでしょう。

苦労は、自分の得ですよ。
チャンスです。
このチャンスを見逃しては駄目ですよ。
このチャンスで正しい道を選ぶのですよ。

「運が良い」とか「悪い」とか言いますけど、
それは、どちらもすでに決まってる筋書きなんです。
後は、どの筋書きを選ぶかですね。

人生には、無駄な時間や、無駄な事などありませんよ。
「生きてる価値がない」なんて言う人もいますけど、それも違います。
価値じゃないんだよ。
寿命まで生きるのが役目なんだよ。
どんなに病気で苦しくても・・・
死を選ぶ事は、逃げですよ。
どんなに苦しくても、そうして生きるのが、その人の定めです。
与えられた試練です。
苦しくても、辛くても、お迎えが来るまで、生きなくてはならないのです。
それが、人生の定めです。

逃げても、悪あがきしても、ズルしても、定めには逆らえません。
何通りかの人生を選択する事が出来ても、それ以外の道はありません。
各人それぞれ役目を持たされて産まれてくるのだから、
必要のない人間なんて一人もいません。

全ての人の人生に意味があるんですよ。

でも、それを前もって知る事は出来ないのです。
自分で考えて先へ進まなくてはなりません。
中には、多少の予知能力がある人もいますし、勘の良い人もいます。

それである程度の事は、先が読めるかもしれません。
知らぬ間に良い道に進めるような祈願をしたり、
お守りを持ったりして運を良くしようとする人もいます。

これは、それだけ持ったり、拝んだりしても効果は殆どありません。
まずは、自分の努力と行いで良くなるようにしないと・・・・
そんなあなたを間違った道に進まないように、教えたり、勘を良くしたり、
氣を高めてくれたりと、応援してくれて支えてくれるのが、お札やお守りなんです。

確かに悪い方へ引きずり込もうとする生霊や霊が、いたりしますからね。
その邪魔者をどうにかしなくては解決しない場合もあります。
これは、信じようが信じまいが変わらない事です。
そこで「どう対処して自分を正しい道に持って行くか」が問題ですから
全ては、本人にかかってるんですよ。

私のような者は、そのがんばってる人のお手伝いをしてるだけです。
わかっていても、どうしても自分で解決出来ない問題もありますもんね。
私が出来る範囲内の事でしたら、力を貸します。
それが私の役目ですからね。

だからって、「自分の未来のストーリーを教えてくれ」と言われても
それは出来ません。
それは、本人次第で変わっちゃうからです。
だからはっきり言ってわかりません。

決められた範囲の中で、「いかに最善の道を進むか」が大切なんです。
それが富、幸福に満ち溢れたものばかりではありません。
元々、どう転んでも平凡以上にしかならない人生の人もいます。
それは、それで考えようによって、どん底もない人ですから、
安全パイなんですよね。
選択肢の差が激しい人は、転び方によって、天国と地獄の差があります。

こうして常に考えなくてはならないようにされてるのですよねぇ・・・
先に進み過ぎて、時間調整の時を持たされる場合もありますよ。
適当に息抜きをしながら諦めないで前に進むのが好ましいですね。
うまく時間を使うのですよ。
好きな事もやって、遊びたい人は、それだけ苦労もしなくてはなりません。
でも、それを苦労と思わないのが、このような楽天家の人なんですよ。
仕事もバリバリします。そしてぱぁ〜と遊ぶ。
自分の楽しみの為に、その分ちゃんと働いてるのです。

細々と暮らしていれば良いと言う人は、楽しみも細々となります。
どこかで良い行いをした人には、ひょんな事から幸せが舞い込んで
来る事もありますよ。
どんな生活をしていても、心がけと行いで良くも悪くもなるんですよ。
昔流行った「人生ゲーム」と同じですよ。

しかし・・・違うのは、ゲームは、負けたら終わりだし
また初めからやり直せます。

でも、我々の魂には、終わりはないのです。
一つの魂に、何回もの人生が繰り返しあります。
やり直しと言うより、続きなんです。
死んだら終わりじゃないのですよ。
それをお忘れなく!

神霊能
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