動物愛護。度が過ぎると・・

動物愛護を訴える人の中には過剰な人もいます。
徹底していて肉は食べない。
革ジャン・毛皮も着ない。
ここまでは本人の問題ですから良いでしょう。
しかしそれを人に押し付けるのはどうでしょう・・・

その動物の習性とか体質とかも良く知りもしないで、
「避妊・去勢が可愛そうだ」とか「ケージ飼いが可愛そうだ」とか・・・
こんな事を言ってる人が間違ったペットの飼い方をして、
早死にさせたり、ストレスを与えたりするんです。

そして行き過ぎだと思うのは、
毛皮反対の人が素っ裸で抗議したり・・・・
何で裸になる必要がありますか?

他国の事までとやかく言う。
これは言ってはならないと思います。
お国柄(文化)なんですから。
その国の人達は、それがごく普通で当たり前なんです。
日本人が豚や牛を食べるように
他国で犬や猫を食べ物としているだけです。
これを責める理由は何もないのです。

他国の人から言わせれば、日本人はタコ・豚・鯨を食べるのが
おかしいと言われます。
これも他国の人が、とやかくいう事ではないのです。

ペットとして可愛がられて、今世を送る動物もいれば
食用として殺され食べられてしまう動物もいます。
実験に使われる動物もいます。
命の大切さは同じですけど役割が違うんです。
人間より下の生き物だけど人間を助けてる。
介護・介助・救助の動物もいるんです。

そんな動物達を犠牲とは言いません。
犠牲というのはニュースで報道されるような無駄な殺生です。
人間の為になり、命を落としてくれた動物達の死を
無駄にしないようにするのが人間の動物達への
恩返しでもあるんです。

動物嫌いの人で、介護の動物に対してまでいじめをするという
気持ちがわかりません。
介助中の犬の体にタバコを押し付けたり、足を踏んだりするのは
介助されてる人間が危険にさらされるという事ですよ。

 〜 介助動物 〜
盲導犬を知ってる人は、多いでしょう。
介護動物は知ってる人はいますかね?
盲導犬とはちょっと違うんです。
段差があり車椅子が動かない場合、引っ張って動かしてくれる犬もいます。
介護と介助両方する犬もいますけど、介護は犬だけではありません。
他にサルなどがいます。

体の不自由な人の、手となり、足となり、いろいろと助けてくれます。
食べ物を口に運んでくれたり、手紙や新聞を取って来てくれたり
電話を取ってくれたりと凄いんですよ。

「もしもし」とは言いませんけど(苦笑)

さて。私が不思議に思うのは・・・・
それだけ動物愛護だと、「動物は殺すな!」と過剰に訴えてる人達の中に、
死後の事は考えてない人もいるという事です。
「死んだら終わりじゃないの?」
「死んだ後なんかあるの?」
という人がいます。

動物虐待死の報道後に
「犠牲となった猫や犬に冥福をお祈りします」
という言葉は出るくせに・・・

「死んだ後の事は知らないよ。」
それは・・・ ちょっと違うんじゃない? と思いますけどね・・・・

死んだら終わりと思ってるのに『冥福』なんて何で言えるの?

死んだら終わりと思ってる人が、何故手を合わせるの?

こういう人は「痛かっただろうな」とか「辛かっただろうな」とか
死ぬまでの苦しみしか心配しない訳です。
私からすれば矛盾だらけです。

(過剰な)動物愛護・・・ これもまた異常となる場合があるんです。
元々人間は雑食です。
他の動物も肉食も草食も雑食もいるんです。
それが何故人間は肉を食べてはならないと、
その為に殺される動物が可愛そうと。。
それは人間には動物に対して他の生き物と違う感情「可愛い」と思う感情があるからです。
それは良いんです。
私だって動物は大好きです。
だけどラインは引いてます。

他国の食文化に対して文句もありません。
もう既に食用として殺されて料理となったものなら食べます。
食べてあげないと無駄死にです。
苦手なものは駄目ですが・・・

あなたは手遅れで蘇生も無理。
死ぬのは時間の問題。
すごく苦しんでる動物に対してどうしますか?
時間の問題でも眠るように死を迎えるなら
静かに見守ってあげる事は出来ます。
だけど見てるのが辛いほど苦しんでたら・・・

これは人間の尊厳死(安楽死)とは違いますよ。

早く楽にしてあげる為に自分の手をかける事が出来ますか?
これが出来てこそ愛情ではないでしょうか?
「動物愛護だ!殺すな!」と訴えてる人達が
救えない手遅れの動物が、ものすごく苦しんでるのを見てるだけでは・・・
よく見てられると思います。
「見たくないから見ない!」と目を背ける人もいるでしょう。
そんな人が本当に動物を愛してるといえるのか?
救えるものは救う。
もう手遅れのものは早く楽にしてあげる。
これが出来てこそ動物に対する愛があるといえると思います。

増えすぎると害として殺して減らします。
減りすぎると天然記念物です。
勝手な人間の意志でしかない。

動物好きのわからんちんには理解不能でしょうが、人間より動物は霊位が下。
これは動かしようのない事実です。
これに対して「動物好きからしたら非常にむかつく」とか
「同じだ!」なんて反論してくる人もいますけど
マジでそう思うなら人間としては失格ですよ。
知能の高い生き物、人間がいるから動物達と共存して面倒をみてあげられる。
逆に動物に面倒をみてもらえるように調教する。

最低な人間が動物に生まれ変わる事。
そして、動物は相当な徳を積まないと、人間には生まれ変わる事は出来ない。
これだけでも動物は人間より下という事はわかります。
下は下と認めてあげる事が好きな動物を苦しめないであげられる。
「同じだ!」なんて死んでも人間と同じ扱いをする事が、結果的に苦しめてるという事実は無視。
見えてる事しか目を向けない。
これじゃー、動物好き関係なくわがままで自己中です。
言葉のしゃべれない動物の意思を勝手な解釈で、結局は自分の思い通りにする。
これが好きという事でしょうかね?
上も下もないと思うなら何故ペットとするんですか?
飼うという行為はすでに下扱いだって事がわかってないの?
飼い主でしょ?
それとも動物に飼われてるの?
家族だというのは良いです。
だけどどうあがいても動物は動物で人にはなれない。

以前掲示板に
『閻魔(えんま)から「犬になれ」と言われた』
なんて書き込みした人がいるけど、これの意味はわかりますよね?
この話が事実かどうかは別として。
犬は人間より下だと、畜生道に落ちて犬になれと。
決して良い意味じゃないです。

私は決して動物をバカにして下だ下だと言ってる訳じゃない。
私は何より動物が大好きです。
しかし一番ではない。
それはみんなそうでしょ?

全員とはいわないけど、大方の人達が愛するペット以上に大切に思う人がいるはずです。

「愛している」といっても動物に対する思いと、愛する人に対する思いは、
やはり違うでしょう。
恋人が死んだから、後追いは結構いますけど
ペットが死んだから、後追いなんて聞いた事ありません。
それだけ愛の重みが違うという事実ですよ。
だからってこれを見て「何を!私はやってやる!」と後追い自殺をしても喜ぶ人もペットもいません。
人よりペットの動物の方が自然体なので、飼い主に対して「こっちに来い」なんて言うヤツはいない。

命という部分で見ても「差別するな」という思いもわかりますし
「動物なんだから」という考えは間違いだと私も思います。
しかし今の文明があるのも『動物達のおかげ』の部分が大きくあります。
これを犠牲というか・・
お役目というか・・

その考え方で思想が変わるでしょう。

私に「もし川で犬と人がおぼれてたらどっちを助ける?」という
究極の選択の質問をした人に
「もし犬が殺されようとしてるところで、身代わりになれば犬は助けると
言われたらどうする?」と私は聞きたいです。
「自分の子供とペット。どちらかだけ殺すと言われたら?」

こんな質問困るでしょ。
聞く方が大間違いなんだ!
こんな事聞く人が動物好き?
人間だから困るんだ。
人間だから悩むんだ。

どう動物と付き合うか。
どういう愛が動物に対して正しいのか・・・

動物好きはみんな良い人・・・ こんな言葉は嘘だ・・・




すがる

こんな辛い人生を送って来たとか
虐待を受けて育ったとか
いじめにあったとか
不幸続きだとか

「何で自分はこんなに不幸なんだ!」
「自分より不幸な人なんていやしない!」
なんて思い込んでる人が、まだまだこの世にも沢山いるようです。

しかし・・・
どれもこれも聞いてると、本人の甘えだったり
本人が悪かったりする人が多いです。
それから「自分はまだまだ幸せなんだ」という事実に気がついてない人。

世の中をちゃんとわかっていない人。
努力が嫌いな人。
自分をわかってない人。
勘違いな人。
自己中心的な人。

上記の人達は、みんな単なるわがままで「自分は不幸だ」と
勘違いしてるだけです。

本当に不幸な人は、自分で不幸だとは言わないもんですよ。
「不幸だ!不幸だ!」という人は、同情されたいだけなんですよ。
同情されるって事が、恥だという事を知らないんですよね。
泣き落としなんて最低だし。
恥ずかしい人にならないよう、みなさんも気をつけて下さい。

そしてこういう人が言う台詞で最も恥な言葉が「すがる」という言葉です。
「すがる」とは「頼りかかる」「自分の努力なしに相手にぶらさがる」事です。
私はすがるという言葉が大嫌いです。
相談や依頼の申し込みの中に「すがらせて・・・」という言葉が
あったなら私はその言葉につっかかりますよ(苦笑)
だから気安く「すがる」なんて言葉を使うんじゃありませんよ。
中にはそういう意味だと知らないで使ってる人がいますからね。
すがるなんて言葉の好きな人は新興宗教にでも行けば良いんです。
喜んで「おすがりなさい」と言ってくれるでしょう。(苦笑)
それがいったいどういう意味なのかわかりますかねぇ。。

だいたいすがれなんて教えは大間違いというか何様なの?って感じ。
すがって幸せになれるんなら私もそうするわ(苦笑)
苦労と努力で掴み取るのが、自分の幸せと言えるものではないかな?
それでも無理な部分をお願いする。
もしくは力を貸してもらう程度に思わないと駄目ですよ。

これが出来てない相談依頼が増えていて
いらついてる私であったりするぅ・・・
すがろうとする人は甘ったれてるから、厳しい事なんか聞けないからね。
無理だよ・・・ 私では(苦笑)




スピリチュアリズム【Spiritualism】

元となる言葉「スピリチュアル【Spiritual】」は、精神の。霊魂の。
とかだそうです。

そして「スピリチュアリズム【Spiritualism】」
これは、簡単に言うと高級霊集団、又は神団等からの伝え。
もしくは、心霊論(術)降神術・降霊説・霊性、とか。

哲学だと唯心論。
唯心論は、観念論とも呼ばれたりするらしいです。

ちなみに反対語が「マテリアル【material】」
唯物論=現物・原料・資料。

哲学だと質量的。

「マテリアリズム【materialism】」が現実主義・物質主義・実利主義となります。

哲学だと物質中心主義・物欲主義・唯物論。
簡単に言うと強欲・悪欲・邪念ですね。

霊が存在するしないはともかく、人には心があると言う事実で
心は誰にでもある訳です。
そしてそれは、精神と繋がるので
心霊肯定派からすると精神=魂となるので「魂の」とか霊・神となります。
心霊否定派からすると、これはただの心=精神となり
死んだら終わりとなります。

哲学と心霊は紙一重だと思います。
私の中では同じものと言えます。
哲学は科学。
心霊も科学で証明されている。
又は、科学で証明出来ないものが霊的・見えないパワー能力。

「しんれい」は心の霊と書くのですから、心と霊は=魂と考えて
良いと思うんだけどなぁ・・
後は生きてる時は魂があるけど、死んだら魂もなくなると考えるか
魂が残ると考えるか・・・ だけの違いなんですよね。

そしてこの世の生きる物には、心が大なり小なりある訳です。
そして川や山などにも魂を感じる訳です。

心霊派・哲学派・その中間派といるので。。
同じ言葉でも解釈が変わるようです。

スピリチュアリズムも人によって解釈が違い、
解釈により考え方が変わって来るのは仕方ありません。
私は中間とは言いません。
やはり心霊派ですね。
ですが哲学としても理解は出来ます。
だから私は、それらをひっくるめてスピリチュアリズムと解釈しています。
それを頭に置いて私の戯言を聞いて下さいね。
これを「間違っている!」と言う人もいるでしょうね。
でもこれを否定する事も出来ないと思います。

般若心経がスピリチュアリズムだという論もうなずけます。
まさに「そうだなぁ」と思いますよ。
でもそれを解釈する側次第でうまく伝わらなかったり
難しい言葉ばかりで解釈されてる物があり
これでは意味がないと感じてしまいます。

この世にいる命ある物全てに対しての教えや
メッセージがあるのですが、それを全て命ある物が
直で聞く事は出来ません。
その為にそれらを伝える為の役割を持たされた人達がいます。

私は、この言葉(スピリチュアリズム)を使うのは好きではありませんでした。
それは、この言葉の解釈がいろいろされていて
間違ってる物も多いからです。
だから誤解されるのも困るからです。

そしてこのような言葉を使う必要もないと思っています。

「神がこう言ってる」とか・・・
実際にそうだとしても、それを言う必要など何もないと思いますし
何でも「神が言ってる」と神のせいにすれば、言ったのは神で
それを伝えた人のせいではないと、逃げる口実にもなります。
そのようにしてスピリチュアリズムを利用して
悪さをする者も多いと思います。

これを宗教と言う人もいます。
こうした解釈をしている人が見たら
私もスピリチュアリズムと言う言葉を使えば
団体になり、新興宗教になってしまう可能性もあると思います。
だから嫌いなんです。

これは私の考えですが
本当に心霊派のスピリチュアリズムの役割を持たされて動いてる人は
その事は言わないと思います。
普通より霊感があると言うくらいの人でも、ココまでくると
話について来れなくなるし、頭おかしいと思われますよ。
それだけ神聖世界の話は難しいと言う事ですよ。

やたらに出来る話ではありません。

スピリチュアリズムだとしてもその役目も異なりますし。
影響の仕方も違うでしょう。

私の知ってる親しいこの役割を持つ人達は、やはりそれを言いません。
能力こそ違えど、同じレベルの人にしかこの話はしませんね。
あまり事実がどうだのと言う話は出来ませんもの。

スピリチュアリズムをただ研究してる人達で
本当はその役割はない人達もいますが、これがまた厄介で
文献だけで知った知識だけを信じて伝えますから
元の資料が間違っていれば元も子もないです。

スピリチュアリズムを唱えてる人達がまちまちな事を言ってるし。

「こうだ!」と押し付けるものなど何もないのが本当なんですから。

そしてそれに対してすがるだけの人達も、それではいけないと思います。

この言葉なしでも伝える事は出来るのです。

その相手に合ったわかりやすい言葉で伝える事。
時には、考えさせる事。

それが大切だと思います。

能書きや難しい言葉も嫌いです。
こんなの語り合い出したら切りがないです。

だから私は今後この言葉は使わないでしょう。

そしてこれだけは覚えといて欲しいです。
神だろうが、高級霊だろうが、人々に細かい説明や指示なんてしないし、
関与もそうそうしないという事です。
ましてや霊が憑いてるから「どうしろ」「こうしろ」とか言いません。
こういう事を言うとしたら低級霊です。
神を偽った低級霊です。

そして要は『私は心霊問題も精神問題も良い方向へ導くのが役目』だと
思っています。
それがスピリチュアリズムだと言うものだと思います。
そんなのは違うと言うのなら、それもそうでしょう。
私にとってはどうでも良い事です。

だから霊に関係のない?相談も受けてる訳です。

精神と魂の癒しを願う気持ちに変わりはありません。

人の中に心=魂なんです。
それには変わりありません。

肉体を失った魂にも心があります。

人は何でも呼び名をつけたがる。
物体のない物なら尚更です。
言葉があると安心するのが人間なんです。
しかし、言葉の意味を間違えると、言葉の意味もないのと同じです。

そしてこれは動物にも出来る事です。(癒す。救う。)
アニマルセラピーです。

何だか訳わからない文になっちゃいました。。。(^o^;




病気は気(≠氣)から

「病気は気から」という言葉がありますよね。
この時の『気』は気持ちの『気』です。
思い込み一つで具合が悪くなったり元気になったりします。

以前こんな実話?がありました。
ある人が頭痛がひどく薬を飲んでも治らないからって
ある霊能者に頭痛が治るお札を書いてくれとお願いしたそうだ。
「そうか!よしよし!」とその霊能者は書いてくれたそうな。
そしてそれを所持して頭痛はスッキリ!治った!!
すごいお札だねー。
で、そのお札にはなんと書いてあったかというと。

「頭痛薬」(←商品名)

とボールペンで書いてあったそうです。
それを依頼者は知ってたそうですが
疑いもなく携帯してたらしい。
これが病は気からです。
これは暗示の一つだと思いますけどね(苦笑)
実際の鎮痛剤が効かないのに
ただの紙に書かれたボールペンの文字が効いてしまった。

ところで、肉体というのは血液が流れています。
血液が流れるように氣も流れているんですよ。

血液が詰まっても病気になりますけど
氣も詰まると体調を壊します。

氣も血液と同じできれいに体中を流れていないと、
氣溜まりが出来たり、流れが途切れたり・・・

この氣と気は違うものだけど、同じといえるところがあります。
気が沈むと氣も下がります。
心と氣は関係あるんです。

うまく氣をコントロールすには、心もコントロールをしなくてはなりません。
氣を高める方法の一つに本気で心から笑うというのがあります。
笑いはプラスエネルギー。
自然な笑いが出せるような状態にあれば心も当然明るいはず。
自然の笑いも出せなくなってる人は、暗くマイナスエネルギーが
発生してマイナスがマイナスを呼びます。
当然オーラも濁り、氣はダウンします。
とかくマイナス思考の人がそうなりやすいですよ。
自分で不幸を呼んでるといっても良いくらい。
体調も悪くなります。

苦しい状況の中でも、自らプラスの氣を発生させて
プラスを呼び、そのプラスの氣を上手に回す事が
精神にも肉体にもとっても良い事なんです。

しかし、元々のその人の氣のレベルというのがあるから
なかなか自分一人ではうまく出来ない人は大勢います。
そういう時はやはり強く良い氣を持ってる人から貰うしかないです。
身近にそんな人がいたら貰っちゃいましょう(笑)

だけど注意して下さいね。
自分の限界というものがありますよ。
良い強い氣だからって考えなしにガンガン取り入れてしまうと
却って精神異常を起こします。
人それぞれ。
合った方法で、合ったペースで取り入れるのがベストです。




感と勘

『感』と『勘』を勘違いもしくは、ごっちゃにしている人が結構います。

感は
感性の感
感動の感
感覚の感
感情の感

つまりこの感は心や理性・神経の感じ方の事の時に使うんです。

勘は
第六感(←漢字で書くと『感』。この字を使いますけど、これはおかしいと思います)
勘が鋭い
勘が当たる

霊的なものと少し関係してきます。
「予感がする」といいます。
字で書くとやはりこの『感』を使います。
正確には『予勘』だと思います。
でもこの字ではないんですよね。

言葉で話すのは同じだけど、文字にするとどっちだろうと結構難しい。
霊感も感ですね(苦笑)
これは二つあると思います。
霊感 → 霊を感じる
霊勘 → 霊的に勘が鋭い

まぁ普通はほとんど『感』という字を使いますね。
それでも良いと思いますけど
「●●があるかんじがした」という時には、
この勘を使う方がベストでしょう。
(でもこの字を使わない・・・。「感じがした」ですね。)




親子(その2)

親と子、遺伝子は伝わってるから容姿や性格や能力が引き継がれても当然です。
だけど、これは肉体としてのもの。

その中にある霊体は別のもの。
そしてその過去世も違うし、与えられてる役目も試練も違う。
「子は親のコピーではない」という事を以前書きましたけど
魂年齢からして、親より子の方が年上って事もあります。
そうすると、親より妙に出来た子が出来ます。

しかし、この世の立場からして、やはり子はいつまで経っても
その親の子なんです。
特に未成年のうちは、その責任は親にあります。

いくら子がイキがっても「親の手を借りないで」という訳にはいきません。
しかし、親が全て完全に子の線路を引いてしまい
その上を走らそうとしても、それが子の為になるものか?
私は思います。

絶対に子の為にはならない。
自分の意思と努力・苦労なしでは、その線路の上には乗っていても
線路の進む先にはいろんな障害やレールのサイズと車輪のサイズが
違ったりで何時脱線するかもしれません。

そして本人にその才能や能力があったとしても
十分に活かす事は出来ないでしょう。
自分は自分で磨きをかけないと光らない。

本当は自分の進みたい道があるのに、「親の為」ってそれを殺す子もいます。
ある時期まではそれでも良いと思います。
だけどいずれ親はいなくなります。
その時、後悔しませんか?
親も希望して子も希望してる道なら、それは一番でしょう。
間違った線路を進んでも何かが狂います。

希望とそれが合ってるとは限らないと云う事。

子は「親に邪魔された」と恨むより、自力で進みたい道に進む意思と
努力と根性をもたないと、自分の為には何もならない。
そして親が引いた線路だけを何も考えずに進んだ子は
何も一人では出来ない意思のない人間となってしまう。
自分で考えるって事の大切さ。

そして能力があってもそれを活かせないのではしょうがない。

自分の道は能力ではない、選択だ。

能力がそんなになくても合った選択をする事で
自分を活かして生きる事が出来る。

その選択をするのは本人です。
親ではないんです。

それから子供ゆえのわがままと、非常識をごっちゃにしてはいけない。

自分の都合で子供になったり大人になったりする子供だから
親は大人として正しい常識だけは教えないと。
それを実行出来る、出来ないは置いておいて。
頭に入れてあげる事は大切です。

だけどまずその常識を親自体がわかってない人がいるので
世の中がおかしな事になってるんです。

そして親も一人の男性であり女性である。
子も同じ。
それを犠牲にはしてはならないと思う。
けど、それは親子の愛情がまずしっかりとしてての話。

親も子も歳をとればそれぞれの道の上にいるでしょう。
その時、過去を引きずるような事がないように・・・



神霊能
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