沖縄本島 北部・中部 [前編]


前回は南部中心でレポートしたので、今回は北部から中部にかけてレポートしようと思います。
しかし・・・ 南部と違い戦争の傷跡の少ない土地なので、レポート出来る所が無い・・・
なんとか情報を集めて数カ所行ってみました。

 旧海軍司令部壕

那覇からまず何処へ行ったかと云うと、あれ?(^^ゞ
いきなり旧海軍司令部壕です。
そう、ココは南部  r(^^;) ポリポリ

前回、ココを見落としてて・・・
慰霊碑塔 旧海軍司令部壕は、太平洋戦争において最後の戦場となった沖縄戦で、日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあった所です。
約4000名の兵士が壮絶な最後を遂げた壕内は、司令官室、作戦室などが当時のまま残され、戦争の悲惨さ過酷さを訴え、平和を願う場となっています。

昭和20年6月13日午前1時頃、司令官太田寛少将を始め、多くの将兵や軍に召集された住民がこの地で最期を遂げました。

資料館には、当時のサーベル・帽子・書き物・弁当箱・軍服・手製の槍などと、この手製の木で作った槍や拳銃が武器だったと云うのだから、そりゃ勝てる訳がない。

資料館内:1 資料館内:2

写真も展示されてます。

資料館内:3 資料館内:4

この黒い柱(写真:右上)に書かれてる言葉。


「夜はみんな杖を持って歩いた。死体を踏まないためだった。」


この言葉を読んで、私はたまらなくなった。
悲しみがこみ上げて来た。


ココから司令部壕内です。
入るとすぐ両サイドに千羽鶴。 いきなり! 105段!!

両サイドに千羽鶴 いきなり!105段!

30mの階段を降りると通路が続いています。
司令部壕内:通路
信号室。

特に何も感じない・・・
司令部壕内:信号室
作戦室。

ココは、作戦を練る為の重要な部屋なので、コンクリートやしっくいで固めた当時のままの部屋。

司令部壕内:作戦室
幕僚室。
司令室、作戦室に近いこの部屋は、幕僚が手榴弾で自決した時の破片の跡がくっきりと残っています。
当時のままの部屋です。
自決した部屋と云うわりにさっぱりしたもので、空気も重たくない。
この部屋には、霊も居ないようだ。
司令部壕内:幕僚室

司令官室。
大田司令官は、6月6日。県民の将来を憂い「沖縄県民かく戦えり」の電文をこの部屋で書きました。
6月11日夜。最後の電文を発信。
「敵戦車群は、我が司令部壕を攻撃中なり。根拠地帯は11日午後11時30分玉砕す。従前の厚誼を謝し健闘を祈る。」
司令部壕内:司令官室 その後の6月13日。
大田司令官以下幹部は、「身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は。」
「大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり。」と、辞世を残し、ココ司令官室で自決をし、首里一帯の抵抗は終りました。

自決の方法は、やはり手榴弾。
爆風で砕けた壁の跡が残っています。
その壁には、大田司令官の辞世の句が描かれたままです。
その句は「大君の御旗のもとに死してこそ、人と生まれし甲斐ぞありけり。」
(天皇のために死んでこそ、人間として生まれてきた甲斐がある)

はぁ・・・ あなたって人は・・・ と思います。
死んだ後も、今でもその思いは、変わりがないようです。

他の戦死者達の多くが実際は何て考えが変わったか・・・
変わったと云うか気がついたか、、、です。
それはココでは言えませんけどね。


自決をしたこの部屋も霊気は、ありませんでした。
「それじゃ自決したけど成仏したんだね。」と書いて終わろうとしたら・・・
念の為に大田實司令官の写真を探して霊視したら・・・
な〜んだこの人、上がってないよ・・・
いったい何処に居るんだぁ???
あんな息苦しい所には、居たくないよねぇ。

それで大田司令官からの言葉をお伝えします。
「大変、申し訳なく思っております。力及ばず、全ては私の不徳といたすところです。」

この人は、負けた責任を全て自分のせいだと思ってるようです。
それで落ち込んで元気が無いです。
誠実で優しい人なので、戦争はすごく辛かったと思います。
こう云う人は、自縛から解いてあげて成仏させてあげたいです。

医療室。
司令部壕内:医療室 生存者の話では、ココを中心に沢山の負傷兵隊が居たと云う。

ココが医療室だとわかってないで近づいた私は、
ココは感じる。
そして、ココだけが生臭い。
ん〜。ココは大勢いるね。
ココで死んだ人が多いみたい。

と言ってから見ると、医療室と書いてあったから「やっぱり。。」と思った。

そして沖縄から帰ってから、これを書いてる時にわかった事ですが、間違えなく撮影してたはずの医療室と司令官室の写真がすっかり無いんです。
私が撮影しているのは、助手も見てましたので撮ってないと云う事はないんです。
なので仕方ないから無い写真に関しては、資料からの写真となります。
(資料 : 旧海軍司令部壕 沖縄観光コンベンションビューロー)

下士官室。

玉砕の近い昭和20年6月頃には、この部屋の余地もない程、兵士達が入り、立ったままで睡眠や休息を取ったと言われてます。
司令部壕内:下士官室
で・・・? 何だこりゃ??

司令部壕内:何だこりゃ? また、お金が沢山投げ込んである。
それも、わざわざ投げ込む箱まで用意されてる?
なんなんだろうねぇ? 日本人って。。。
と言いたいところだが、ドル札も見えてる。
あれれ・・・??
お賽銭じゃないんだから・・・
何でココにお金を?
理解に苦しむ・・・

兵士達が当時欲しかった物は、お金なんかじゃないぞ。
安らかな居場所だ。
そして食べ物だ。

通路を進むとまた当時の写真が展示してある。
司令部壕内:通路を進む

そして、所々にこのような穴がある。

司令部壕内:穴(その1) 司令部壕内:穴(その2)

覗いても特に何も感じない。
この壕は、兵隊達がつるはしくわで掘った手作りの壕なので、まだ部屋を作ろうとしてたんじゃないかな?

通路には、戦闘の合間、横になって休息を取る事で、壕内の通路は全て兵士の兵員室となってました。

こんなに辛くて身も心もボロボロ状態の人達や、死者や自決者が居た壕なのに・・・?
生きてた人の念もすごかったはずなのに。
全体的に壕内の空気は重くない。
クリアって訳じゃないけど、普通って感じでしたね。

対戦中に医療室で死んだ兵士達は、やはり心残りだったのか・・・
あそこだけに霊気がした。
最後まで戦って死んだ兵士達は、思い残しがなかったのかもしれない。
この空気が大勢の兵士達が成仏してる為である事を願いたい。

もう出口です。

司令部壕出口 普段、兵士達は、学校や民家などで生活をしてて、空襲の時だけ一時的に壕へ駆け込んだそうです。

敵軍が上陸してからは、毎日のように砲撃や空襲があったので、それからは壕内で暮らすようになりました。
壕内は、湿度も高く通風も悪いのに大勢の兵士の呼吸するのも大変でした。
戦闘が激化してからは、病人も死体も一緒ですから尚更大変でした。
また、壕内には、トイレがありませんから、空襲や戦闘の合間を見て壕の外へ出て排泄してましたが、戦闘が激しくなってからは、外には出られませんから、やむを得ず壕内でやりましたので、排泄物の臭いだけでも壕内生活は、臭くて惨めな毎日でした。
激戦が止んで壕の外で新鮮に空気を吸った時が生きてると実感出来たそうです。

しかし、当時のままだったら、何十年も経った今でもその臭いはあって良いと思うんだけどなぁ?
排泄物は、土に返ってるのかもしれないけど。
それでもあの臭いって通気の悪い空間では、なかなか消えないと思う。
だけど壕内は、ほとんど無臭だった。
消毒とかしたのかな?

海軍壕の戦死者の遺骨は、終戦直後豊見城城跡公園で火葬された上で祀られていましたが、その後、那覇市議名に戦没者中央納骨所が完成したので、そこに移されて、昭和54年に平和記念公園へ再度移され、今も平和記念公園で永遠の眠りについてます。

平和記念公園のレポートは沖縄本島南部をご覧下さい



そしてその夜。
心霊スポットとして噂のある所を回る事にしました。


後編へつづく・・・



(沖縄本島 北部・中部 [後編] は、こちらをクリックして下さい。)


結城 瞳


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